(1)、 私のプロフィール
私は1940年5月26日大阪市東住吉区田辺で産声を上げました。
小学校へ上がるまでの幼少の頃の記憶は、あの太平洋戦争末期の米軍本土爆撃におけるB29の編隊が大阪の町を爆撃している模様を家の軒下で上を仰いで上空を眺めている光景が鮮明に残っています。
小学校は私の家から歩いて7〜8分位で行ける、大阪市立南田辺小学校に通っていました。
この当時世の中は今のような飽食の時代とは逆で何も無い時代、私の兄達は田舎に食べ物を買出しに行っていた事を思い出されます。
そんな時代であっても私達が遊んだ遊び方は、近所の空き地、公園、広場で棒切れを持ってチャンバラごっこをしていました。
夕方には近くの畑に行き空を仰いでいますと、飛んで来るんですトンボが次ぎから次ぎえ、1メートル位の糸の両端にキャラメルの包み紙に小さな石を入れてその糸に結び付けて(これをブリと言った)、その糸の真中を持ってトンボを目掛けて放り上げるとトンボは両端の石包みを餌と間違って飛び掛って来る訳です。放り上げたブリは引力の法則に従って下に落ちて来る訳です、この時トンボは石に向かって飛び掛って来ますのでブリの糸に絡まって下に落ちて来る訳です、この様にして夕方に沢山のベニヤンマを採って遊んでいましたね。
こんな記憶が瞼の裏に焼き付い今でも鮮明に残っていますね。
中学校は私の家から10分位で行ける、大阪市立田辺中学校に行っていました。
この当時一学年12〜13クラスあったと思います。
この時期学校ではクラブ活動も活発で、特に陸上が強かった様な記憶が残っています、 私はクラブ活動はあまり積極的ではなかった様です。
小学校時代に比べると非常におとなしい異性を意識する多感な時代だったと思います。
またこの時期は学校の校舎不足で、我々の学年では無かったですが、借り校舎で他の学校に出掛けて勉学した学年もあった様です。
高等学校は大阪市立住吉商業高等学校に入学すろ事が出来ました。
この当時、中学から就職する人が全体で2割位は居たのでしょうか。
また私もそうですが、高校から就職するのが4〜5割位、後の残りが大学進学と言った感じでしたね。
この高校時代は社会人になる為、ソロバンと簿記を教え込まれました。
今ではソロバンは電卓、コンピューター、パソコンと急激な時代変遷により世の中から消えていく状態ですが、私達の時代は正しく計算機だったのです。
私にとって社会に出たときに武器となったのは、この高校時代に学んだ簿記だったのです。
40数年間簿記をベースにした会計、経理、計数と言うものが私の社会人人生を助けてくれたのです。
高校を卒業すると約10年位を税理士事務所で経理実務の修行を行ないました。 その後企業社会に飛び出して行ったわけです。
プラスチック、化成品、化学工業薬品の専門商社としては相当知名度が高かったと思いますが、現社名 CBC株式会社(旧社名 中外貿易(株))に入社する事となったわけです。
入社した年は、大阪万博が開かれた年でした。
入社して二年目位からコンピューターとの関わりを持つ様になりました。
当時自社導入している企業は、銀行、保険、その他は上場大企業位だったのではないでしょうか。
その当時、NCRの計算センターに紙テープを持ち込みコンピューター処理を行なってもらい結果をとりに行き社内関係部署に配布すると言うコーデネーターの役割を行なっていました。
その紙テープを作るのに一台畳で二畳位のスペースを取るNCRの会計機三台で伝票発行を行なうと共に紙テープを作る作業を女子オペレーター14名と一緒に作業をしたものです。
正にコンピューターの草創期に関わりを持つことが出来たのです。
紙テープの修正等もよくやりました。
その後、コンピューターの自社導入に関わり、導入に当たっての費用効果の計算も行ない導入決定に導き出す、そんな経験もして来ましたね。
システムのいろはも分からない者が4〜5人集まり企業内EDPシステム構築に取り掛かったのです。
この時に採用したコンピューターが「FACOM230−15」でした。
何も知らない者が社内の夫々の人達の仕事をリサーチをすると共に「販売から代金回収、入金までの一環システム」のフロチャートを作り始めたのです。
システム設計入門、COBOL入門の本を買い込んで勉強しましたね。
当時はまだソースを作るのもデータを作るのもカードか紙テープのどちらかでしたね。 私達は紙テープでした、紙テープからEDPに読む込んだプログラム又はデータはMTに一時記憶させるんです。
現在ではハードデスクは超小型大容量の物が安価に手に入る時代ですが、その当時はデスクは高価なもので、我々が最初に使った物の容量は128KBでした。その為デスクで処理をしたデータは総てMTに吸い上げて使うと言う状況でした。その為MT装置は一日中行ったり来たり廻り続けていました。
そんな草創期のコンピューターを直に体験してきた事は貴重な体験だったと思っています。
その後五次に亘るレベルアップにも立ち会ってきましたが、作業行程は基本的には今までと大きく変わる物ではなかったと思います。
デスク容量は大きくなりましたが外部記憶としてMT装置も無くてはならないものでした。但し通信技術の向上と共に全国オンライン化が進められて行きました。
また、IT技術の発展と共に
Microsoft
のWindosの登場でEDPの世界が大きく変わっていく事になりました。
私が会社時代に体験したのは、これ以前の全国オンライン化を進めていた辺りまででした。
その後名古屋支店に転勤、一般的に言われている名古屋モンロー主義を実際に経験、自分もその軒中に入るとその主義を実践しているのでしょうか、友人から君もモンロー主義に染まって来たな・・・なんて言われました。
会社を退職する前10年間はコンピューターから離れ、企業の危機管理の一部になるのでしょうか、取引会社の財務経理、経営管理の分析審査の業務をすることとなりました。
この時期に昔勉強した簿記会計の知識が大いに役立つこととなった訳です。
そうして、2000年5月末日をもって30年務めた会社を後にした訳です。
以後退職後一年三ヶ月は失業保険の恩恵を受け、現在は年金生活を続ける身分となりました。
以上、プロフィールと言うのでしょうか、生を授けて現在に至るまでを実体験を混ぜて記述致しました。
私はプロフィールで述べた如く正しく企業戦士として生きてきた為、ふと振り返って見ると自分に備わっている物、実行してきた物は殆ど何も無い事に愕然としている処です。
こんな事ではと会社退職3年位前からパソコンを使って何かしてみたいと思い立ちました。
幸い写真をコツコツ撮り続けていましたので写真の整理をしてみようと考えまして、Canonのフイルムスキャナーを買い込みボチボチと整理しています。
まあ、社会に貢献したい等と言う大それた考えは何もありません、自分の老後を慰める物と言うんですか、呆け防止と言った気持で始めています。
人間て不思議ですね、徐々に整理が進んでいくと俺だけ楽しんでいても面白く無いなー・・・なんて気持が湧いて来るんですね、この気持の変化は自分でも不思議に思いますよ。
そんな思いが昂じて来まして、よっしゃ一丁ホームページ作ってみようやないかと奮い立ったわけです。
会社退職後ホームページ作成用のマニュアル本を3冊買い込みまして本格的にHP作成に取りかかり、2000年10月に完成となりました。
不思議な物でHPを立ち上げると、もう一つ作ってみようと言う気になりましてね、次から次へ今では四サイトを抱える事になりました。
四サイトを一本の窓口に集め其処から夫々のサイトに別れて行く様に管理ページを作成しました。
このHPは左のフレーム内のHPアドレスをクリックして頂くとHPが展開して行くと思いますので一度覗いて頂ければと御待ちしております。
私の趣味
ここで私の趣味と言いますか好きな事を述べさせて頂きます。
今は二つの事を楽しみにしております。
(1)、写真
カメラは20年来続けておりますが、貧乏生活をしている為大した機材は
持ち合わせておりません。
今まで撮って来た主なジャンルは、
・ 日本の自然風景
近畿を中心に、数少ない旅行先で撮った写真が中心です。
・ 古寺巡礼
好きな土門拳の古寺巡礼のタイトルをそのまま頂戴しました。
近畿を中心に徐々に増やして行きたいと思っています。
・ 歴史探訪
今は近畿の遺跡、史跡を写真に捉えて行きたいと思っております。
平城京(宮)、大阪泉南の海会寺遺跡
・ 建築物、街の風物
大阪の街が中心です、
中ノ島界隈、紀州街道(熊野街道)泉南市の風物
・ その他スナップ他
JAZZ演奏風景、日本の祭り、その他色々
この様なものを今まで撮っていましてPC上で整理ファイルしています。
一部HPに発表しています。
(2) 音楽鑑賞
私の好きなもう一つは音楽鑑賞です。
音楽が好きになり始めた切っ掛けは高校生の時代、
ラジオから流れていたカンツォーネ「カタリカタリ」を聴いてからでした。
歌っていた歌手はメトロポリタン歌劇場テナーのリチャード・タッカ−
でした、これ以来テノールの声に惹かれて深みに嵌って行きました。
それ以来マリオ・デルモナコ、コレルリ、デ・ステファーノ、ベルゴンツィ
ドミンゴ、等々にしびれてしまっています。
まあ、そう言うものから入門しましたが、その後シンフォニーをはじめ、
クラシック全般に広がっていきました。
私が20歳位だったでしょうか、はじめてビクターのステレオ買った時は、
毎日ステレオを撫ぜ回していましたね。
レコードは高く何枚も買えなくてクーべりック指揮「新世界」、 ミュンシュ
指揮「幻想交響曲」、マリオ・デルモナコ「イタリア民謡」の三枚でした。
当時未だステレオ放送では無かった時代、NHKの「立体音楽堂」と言う
番組があって、第一放送と第二放送で右左にチャンネルを分けて放送を
していましたね。 それを聞くのが楽しみでした。
ステレオも何台か買い換えていく内に音も良くなって来まして、音楽の巾
も広がりJAZZに惹かれるようになりました。
その切っ掛けはアートブレーキとジャズメッセンジャのアドリブ演奏でした
若い頃はジャズヴォーカルにはあまり興味なかったのですが、特に最近
興味が出てきました。
家ではあまり大きな音で聴けないので静かな曲を聴くようにしています。
バロック音楽が多いです。
JAZZに通じるところがあって即興演奏なんかがあって楽しんでいます。
以上、私の趣味でした。
私は今まで、生を授けて現在に至るまで世の為人の為と言った生き方は意識の中には無かったと思います。
一つ言える事は、人の迷惑になる様な事は何もしていないと思っております。
自分ではそう言う風に思っているのですが、立場が変わるとそうでは無かったかも知れません。
然し、真面目に61歳になるまで生きてきたと思います。
これが真面目に考えたときに言う、世の中,社会に対して貢献したと言うのかも知れません。
さて、これからが大変です、年金生活をしていると言う事は若い世代の人々に負担を賭けていると言う事になるのでしょうか?
然しそうした様に難しく考えるのではなく日々楽しく生きて行ければと考えています。楽しく生きる為に「夢とロマンを求めて」と言うキャッチフレーズを頭の中に抱こうと思っています。
夢とは何でしょう、美しいものを追い求める、あるいは美しいものを勝ち取ると言った事でしょうか。
昔から人は年を取るほど可愛くならなければ人から嫌われますよとよく言いますね・・・この可愛い人が「美しい」と言う事になるのではと思います。
言いかえれば、色んな人に親しまれる、好まれる、何時までも明るく振舞う事が出来ると言った様に人々から愛されると言う事でしょうか。
そうした心に決めた事を追い求めて実行して行く事が夢なんだろうと思っています。
ロマンとは、・・・何時までも何時までも心に決めた夢を追い求める気持ち、行為そのものがロマンではないのかなァと思っています。
まだまだ若いんだ・・・「夢とロマン」を何時までも追い求めようでは有りませんか。
これが私の生き方なのでしょうか、まだ模索しています。
ああ情けないかな欲望だけが一杯です。
腹の中では欲望に負けるなと言う虫も働いています。
現実は両者の綱引きになるのでは・・・・分かりません
老いて功を遂す、老いて大成する等などはまだどこにも有りません、実際はそれを追い求めて行く事になる事でしょう。
以上、訳の分からない私の生き方でした。