
だんじり会館の前を走る堺阪南線(府道204号線)の岸和田本町の横断歩道をを渡って1本筋を中へ入ると、江戸時代、紀州のお殿さまや岸和田の岡部藩のお殿様が参勤交代で通ったという紀州街道が通っています。この横断歩道を渡り紀州街道と交差する角に岸和田市水道局があり、その角に「左こなから坂」、「右紀州街道」の道標が建っている。

歴史的町並保存地区としてきちんと整備された街道沿いは、江戸時代の古い家が、紀州街道に軒を並べて建てられている。街道に面した家はすべて中二階で、裏側の城に面した屋根は、民家から城が見えないように一階建てであるのが特徴である。
街道筋には円成寺、光明寺がある。この寺は1500年〜1600年台に建立されてものらしい。
本町の旧跡として一里塚と弁財天がある。一里塚は慶長9年2月、江戸の日本橋を一里塚の起点として36町を1里と定め、1里ごとに一里塚を築造して、エノキ、松などを植えたのにならったもので、陸路を旅する人や、重荷を運ぶ牛馬のひづめを休めた。弁財天は万治・寛文のころにつくられたといわれ、天保7年改造されている。
元和2年(今から370年程前)以来、本町中央に、薬種商の看板をかかげた卯建。今なお、屋根の上に設けられている看板は、小児胎毒下しの家伝の漢方薬の看板であって、「反魂丹」と書かれ、紀州街道でいちばん目につく大事な骨とう品で、有名な書家超陶斎の字である。明治初めの『和泉豪商名家図譜』によれば、本町の三軒の家が記載されている。今もなお盛んである。
また、「諸道具、書画 買」の看板を掲げた骨董屋等も並んでいる。
本町は、町役場を中心として税務署・警察署・郵便局(電話通信所)・学校・幼稚園・旅館・芝居小屋・商家が紀州街道沿いに立ち並び、一つの自治体を形成して官庁街として岸和田市発展の基をなしてきたところなのである。
途中「まちづくりの館」という休憩所が。だんじりグッズや銘菓の村雨とかが展示され、町情報をいろいろゲットできる。この街道筋を貝塚方向に進んで行くと「蛸地蔵天性寺」がある。この蛸地蔵の由来は、建武年間(1334〜38)に和田高家という人物が岸和田に城を築いたのだが,その時,どういうわけかタコの背に乗った地蔵が近くの海辺に現れた。けれど乱世だったので人々は信仰どころではなく,相手にしなかったらしい。 天正十二年(1584)三月,隣国紀州の根来衆と雑賀衆が来襲し,豊臣秀吉の部将中村一氏(なかむらかずうじ)らがこもる岸和田城を攻撃した。 城方敗色濃厚のある日,沖から巨大な法師が無数のタコを従えてやって来た。上陸したタコ軍団はやたら強くて,根来,雑賀
の衆徒はさんざんに打ち破られたのである。
大法師はかつての地蔵の化身で,その後のいきさつを経て,地蔵尊像が天性寺にまつられることになった
これ以外にも、「こなから坂」辺りには当時を思わせれ趣きのある風情が点在する様であるが今回は時間無く其方に脚を運ぶ事が出来無かった。また、次ぎの機会に訪れたいと思っている。